“僕はここにいる”

“僕はここにいる”
このひとことで、皆さんはどう感じるでしょうか。

 

小説でも歌でも良く見聞きするのですが、
これは研究者の気持ちについて調べているなかで、感動したひとことなんです。

 

詠み人は書かれていませんでしたが、

 

「研究をやっていく上で自己満足できるかどうかが最も重要ですが、他己満足(他人からの評価)が得られなければ研究を継続できません。自分の存在をどのぐらいアピールできるかはとっても大切です。自分の研究内容を人にわかりやすく伝えましょう。」

 

とありました。

 

この文章では、「自分の研究内容を人にわかりやすく伝える」といったことがメインで書かれていると思いますが、

私は、“僕はここにいる”を我が子、または似た年代の子どもの後姿に当てはめてしまって、

孤独のせつなさ、そして理解されることの幸せについて想いめぐらし感動した次第であります。

 

“僕はここにいる”と口に出して伝えることができる子どもは、この世の中にいったいどれくらいいるのでしょうか。

きっと、言わない、または言えない子が多いのではないかと思います。

 

特に日本人は大人でも「自分をもっと見て欲しい」なんてことを文化的に口に出さないですよね。

ぐっと我慢して「察して(気づいて)下され」と心に思うのが美徳とされてたりしますし。

 

昨今のイジメや自殺。やはり日本では特に多いようです。

“僕はここにいる”に気づいてあげれたら、一体どれほど防ぐことができたのでしょう。

 

私のような未熟者が偉そうなことはいえないのですが、

 

何かしらの苦。に苦しみ続ける。ついには「死」。

 

ではなくて、

 

もっと楽していいんじゃないか。

逃げちゃっていいんじゃないか。

「やってられるか!」と叫んでいいんじゃないか。

 

そして廻りは、

 

少しでも許してあげていいんじゃないか。

少しでも認めてあげていいんじゃないか。

その子のペースを見守ってあげていいんじゃないか。

 

と思うのです。

 

ひとりの存在を否定したらダメなんです。間違いなんです。

噛み合わないなら場所を変えたっていいんです。

本人は “僕はここにいる” と言っていいんです。

 

私の次男は自閉症スペクトラム障害(ASD)であって、言葉が話せません。(思いっきり自由ですけどね)

 

話せるのに、話さずに我慢して苦しみ続けるなんてもったいないですよ!

 

 

実は私が「お子さんの自立性の向上」を願うのは、こういった背景もあるのです。

 

どうも最近,

指示を待つ子が多くて、自ら考えて動く子が少ないように感じるんです。

 

単に「指示まちはダメ」なんて言うつもりはありません。

 

だけど心が苦しいトラブルに巻き込まれたとき、「正しい指示」がなかったら、もっと苦しむんじゃないでしょうか。

どうしたらいいか分からずに迷うんじゃないでしょうか。

 

きっと抜け出す選択肢があって、それを自分で調べて行動できたら救われるのではないのでしょうか。